学校紹介

くすのきのお話

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学校の南の門を入ったところに、高さ約15m、幹のまわり約2.3mのくすのきの大木が高くそびえています。幾たびか校舎が建て替えられたことも、ここで戦時教育が行われたことも、戦後の民主教育が行われてきたことも、毎年卒業式と入学式が行われて、子どもたちが送り出され、迎えられたことも、この『くすのき』はずっと見てきました。

だから、足近小学校の明治・大正・昭和・平成四代の卒業生は、だれもがこの『くすのき』を仰いで小学校生活を送ってきました。これからの話は中島の馬嶋良さん(大正六年生まれ)のお話をもとに書いたものです。

この『くすのき』は中島の馬嶋良さんの父、馬嶋小左衛門さんが日露戦争に出征される時、その記念に植樹したものです。小左衛門さんは竹鼻町上城の林家に生まれ、林富之助といいました。22歳の時、親戚である中島の馬嶋家へと婿養子として迎えられました。そして、県議会議員でもあった養子元の父馬嶋小左衛門の名前を襲名し、小左衛門と改名しました。まもなく、今の韓国の京城に渡り、実兄とともに仕事をしていましたが、25歳の時、召集令状が入り中島へ帰りました。

日露戦争は明治37年(1904年)に勃発し、翌38年(1905年)まで続きました。小左衛門さんは、当時、世界の強国、大ロシア帝国軍隊との戦いに出征するにあたり「自分がもし戦死することがあっても、後に何か残るものを残していきたい。」と考え、出征記念として植樹を思いつきました。そして、あれこれ選定して『くすのき』と決めたのです。

多くの樹木の中から『くすのき』を選定したわけはよくわかりませんが、広辞苑などで調べてみると『くすのき』はわが国に産する樹木中最も大きくなるもので、高さ30mにまでも達するようですし、材質は硬く、きめは美しく、特殊の香気も発しますので、相当熟考して選んだのではないかと思います。特に枝を広く張って、高くそびえることはきっと魅力だったろうと思われます。

小左衛門さんは三ヶ所に植樹することにしました。一本はもちろん中島の馬嶋家の庭に、もう一本は竹鼻町上城の生家の庭に植えました。三本目は足近小学校の校庭です。足近小学校の卒業生でもない小左衛門さんが、ここに植えようとしたのは、我が子が、これから学ぶ学校であり、将来の村や日本に生きる子どもたちに、期待を寄せたからではないかと想像します。

こうして、金沢師団へ入隊、出征していきました。戦地を歴戦、日露戦争の最大の激戦地であった旅順の203高地の戦いにも参加しました。この激戦で右ひとさし指切断。左肩に弾丸の貫通銃創。右側頭部の弾丸による裂傷を受けて、郷里へ帰りました。

その後、村会議員や村長(大正13年~昭和4年)などに選ばれて、足近村の発展に尽くし、昭和30年八十歳で永眠されました。小左衛門さんが、手植えされた『くすのき』は百年を超える歳月と風雪に耐えて今日も高くそびえ立っています。